あそびの木はわらべうたサークル、あそびの木合唱団、マニフィカート合唱団で構成されています。

わたしたちあそびの木は、9月にコンサートを予定し、昨年から準備に取りかかっていました。

しかし、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、コンサートの中止を余儀なくされました。

企画していたコンサートでは、その独特な世界観で私たちの読譜力や表現力を刺激し試してくるバルトークの作品を数曲演奏するつもりでした。

バルトークは、ハンガリーでコダーイと共に自国の民族から生まれた民謡を採集し、ハンガリーの音楽を世界に紹介すべく、たくさんの作品を創造した音楽家です。

慶子先生は、合唱団やその父兄に『バルトークの物語』を発信してくだいました。とても素敵なので、あそびの木を応援して下さっている皆様へもお伝えしたく、ホームページでご紹介します。

 

バルトーク ベーラ物語

『音楽はあなたの心への贈り物です。どんな音楽を奏でる時も、あなた自身がもっとも大切であることを忘れないで下さい』(バルトーク物語の著者でピアニストのセーケイ・ユーリヤさんのメッセージです。彼女はバルトークの生徒でした)

バルトーク先生の生徒達はいつでも、まず全曲を演奏したそうです。そして先生は曲を分析しながら、その構造やその曲がどのような主張をしているのかを充分に感じ、それをどう伝えるのかを示しました。

バルトーク・ベーラは1881年3月25日にナジSt.ミクローシュ(現ルーマニアですが、ジュラの南です)で生まれました。お父さん(同名のベーラさん)は農業学校長でしたが、音楽連盟を結成して指揮もしていました。自分の合唱団のテンポを合わるためのおもちゃの太鼓を3才の息子ベーラはいつもものすごい速さで打ち、お母さんはピアノを弾きました。するとベーラはリズムを合わせたそうです。

5才のベーラはすでにピアノを弾き、お父さんの誕生日にはピアノ連弾曲を作曲してプレゼントしたそうです。しかし、父はベーラが6才の時に病死しました。

ベーラは母と叔母と一緒にナジセーレシュ(西北部の空気のきれいな山間部)に転居しました。二人はベーラの才能が豊かに育つよう、見守り続けます。母は小学校の教師、叔母は料理上手!

1891年 10才のバルトークは祝祭コンサートで自作の曲でアンコールを何度も。地方誌に成功が掲載されると、わざわざショプロンからオルガニストがブダペストでの音楽院への入学をすすめに来ました。

お母さんはベーラの病弱な体質と学習環境を考え、ポジョニ(現チェコのブラティスラヴァ)に転居。ここで、ベーラはエルケル・フェレンツ(ハンガリー国歌の大作曲家)の息子エルケル・ラスローから初めて音楽理論を学びます(10才半)

ラスロー先生はポジョニでベーラのためにコンサートの場を準備しました。オーケストラとの協演、室内楽での演奏を続けるうちに、ベーラはその才能ゆえに音楽の新しい世界を広げていきます。

学校の聖堂のオルガニストをしていた15歳の時、ベーラは初心者にピアノを教えていた月謝のすべてを払い、ベートーヴェンの「ミサ ソレムニス(荘厳ミサ)」の総譜を買いました。これは約60年前の1823年にベートーヴェン自身が大司教に捧げる際、楽譜の表紙に「心から生まれ出た音楽は心に届く」書いたほどの、信仰心ゆえの作品です。バルトークはこの大曲を楽譜のすべてをピアノの助け無しに読みとりました。

 17歳になったある時、ブダペストから帰省した年上の友人が、ベートーヴェンのソナタを、今まで聞いたことのない程の美しさで弾くのを聴きました。友人はブダペストのリスト音楽院でリストの弟子であった先生から指導を受けていたのです。

ウィーン留学の話もありましたが、ブダペストに行く決心をしました。

18歳の9月にブダペストのリスト音楽院のピアノ科と作曲科に入学しました。

二年生まではピアニストとしての成長が素晴らしく、先生達はバルトークが作曲家として名を残すようになるとは思いませんでした。

さて、この頃ハンガリーではドイツ文化が大きく広がり、音楽では世界的にもワーグナーやブラームスが活躍していました。

バルトークは3年生、そしてコダーイはそれまでいた大学の文学部からリスト音楽院へと転入して来ました。

1900年  バルトークは21歳です。この頃、ハンガリーでは芸術家の生き方にも影響を与える国民運動が盛んで、バルトークも熱狂的に参加しました。「音楽でも、ハンガリー独特のものを創造すべき!」

バルトークは授業の時も、デモに参加する時も、モール飾りの付いた民俗衣装を着ました。シュガール通りに集まった群衆は「ハプスブルクをやっつけろ!」と叫びます。このころ作曲法でたった一人優秀点をもらったコダーイも群衆のひとりでした。(まだ二人は出会っていません)

やがて、群衆はケレペシュ墓地のコシュート・ラヨシュのお墓の前に長い時間、立ちすくみます。

バルトークは「コシュート・シンフォニー」の作曲を完成しました。

 

コシュート・シンフォニーはたくさんの音楽家から賞賛を受けましたが、納得できない気持ちでした。なぜなら「自分の人生のすべてを、どこにいても、いつでも、マジャール民族とその祖国のために捧げたい」と考えていたからです。

 

ある日、台所から聞こえてくる奉公人の歌を聞いていました。それは農村出身の少女が歌う民謡です。

「赤いリンゴが水たまりにおちた…枯れた枝から離れたところには 赤いバラ…」セーケイ出身の少女が小さい時に祖母から教わった歌でした。

すぐにピアノ曲に作曲したバルトークは、ピアニストの友人エンマにも弾いてもらいます。エンマは、その独特で美しいメロディーを弾いた途端に、バルトークが民俗の宝物を見つけたことが分かりました。

エンマは「民俗誌学の会報」をバルトークに渡します、著者はコダーイ・ゾルターン!

すぐにバルトークはコダーイの博士号授与式に向かい、そこで初めてコダーイに会いました。

コダーイはすでにバルトークの演奏を聴いていたことを話し「私の心を躍らせるのはあなたの作品です!」すると、バルトークは「どうやって民謡を収集しているのですか」「どうやって農民とコンタクトを取っているのですか」次々に質問しました。コダーイは「収集するためには教え子の出身の村へ行き、その村の牧師に会います。上手に歌う村人を集めてもらい、彼らと知り合いになり、信用してもらってから採譜します。しかし、村のしきたりで年寄りは人前で歌うな、と言われています。一番難しいのは老女に歌ってもらうことです」

 

コダーイはバルトークに話します。

「ある村で、やっと老女に歌ってもらい採譜している時、村長に逮捕されそうになった時もありました」

「しかし、なんと言っても一筋縄ではいかないのが男達です。彼らとは一緒に酒を飲まなければ…しかも居酒屋の煙の中で夜明かしです」

コダーイは民俗誌学会にバルトークの入会手続きをして、二人の採譜は始まりました。

 

コダーイは北部ハンガリーへバルトークは南部のトランスシルバニアへ。重い蓄音機をかついで、地元の馬車引きでさえ行ったことの無い人里離れた村々へ。

このような村の人々は都会の歌など聞いたことも無く、民族の昔からの宝である民謡が残っています。しかし、まもなくラジオがへんぴな村々に都会の音楽を聞かせるのは分かっていました。伝承音楽救出作戦はのんびりしてはいられません。

大都市から遠くに行けば行くほど、貧しさは増します。

人々は、貧しければ貧しいほど、美しく歌います。

歌っている村人のまっ正直さ!

少しの会話、そして歌い、手を握り合い、ちょっとの目くばせ…

それでもう分かり合ってしまう。

収穫しながら歌う少女達…

葬式で泣き女達が死者のために歌っています…

壊れかけた小さな居酒屋からは、老人達のしゃがれ声の歌…

聴きながら採譜、採譜、採譜。

なぜなら村人達は見たことない蓄音機を怖がるのです。

もちろん、歌うことさえしてくれない老婆もいました。

バルトークはトランスシルバニアの村で聞いた、美しいふしの断片の歌詞をどうしても知りたいと探し歩いていました。

とても年とった老婆に出会い、そのふしをハミングしました。どうでしょう!老婆は農民独立の豊かな発音で歌い始めました。

 

『神様 神様 川を大水にして下さい

私が父さんの門まで行かれるように

父さんの門へ 母さんの食卓へ

そして私をどんな人へ嫁にやったか

知るでしょう

 

嫁にやったその人は

   おしゃれな兵隊 夜は山賊

今もあの十字路に出かけている

十字路でまちぶせ 人を殺すため

一枚二枚の銀貨のために

    血を流して悔いのない人』

 

素朴な人々の奥深く悲しい歴史とその心に至るには、苦労で長い道のりが必要です。

しかし、バルトークはその道を見つけるために、どこまでも歩きつくしました。

母に手紙を送りました。母は驚いたり感嘆したり泣いたりしながら読んでいました。

手紙には「農民達には平和があり、民族間の憎しみなどありません。憎しみは上流階級の間でのみ、はやっている習慣です」

「私の生涯でいちばん幸せな日々とは村で農民たちとすごす日々です…」

 

1910年 バルトークとコダーイは弦楽四重奏団を立ち上げ、外国へも演奏旅行に出かけました。

演奏する曲はもちろんバルトークとコダーイがそれぞれに作曲しました。作品はそれまでに収集したハンガリーの民謡の、まだ土のついたままの素晴らしい素材を学問的に分類し、編曲します。

素朴に、または複雑に芸術作品として形作るには能力の最高の試練の連続です。

バルトークはピアノを弾きます。弦楽演奏は若い音楽家です。チェロ奏者は24才です。ヴァイオリン演奏をする20才未満の若く熱心な学生達は100回位上ものリハーサルを重ね、演奏会にのぞみました。すでに有名な音楽家には、この現代的な曲を演奏することが難しかったのです。

バルトークは1907年に弦楽四重奏曲No.1を作曲しています。

外国へも演奏旅行に行きました。若い世代はその革命的で新しい表現の音楽を歓呼して迎え入れました。

その一方で、ほとんどの官吏やいわゆる音楽通、批評家達は面食らい怒りました。「民族的旋律やハーモニーはあまりに聞き慣れない。思考と旋律をあなどっている」と。

しかし、演奏会にまじめに向き合った正しい評価は「彼らの作品の独特の旋律には、深いハンガリーの感情がしみこんでいる。そこに形式上の工夫、興味深いハーモニー、多彩に展開していく調性。事実は芸術上の革命的行為である」

バルトークとコダーイはさらに民謡調査の旅を続けます。

バルトークの言葉です。

『私が作曲家としての自我を確立して以来、常に意識してきた私の真の理想、それは諸民族が戦いや争いを超えて兄弟として抱擁し合うことです。この理想のため、私は力の及ぶ限り、私の音楽をもって仕えたいのです。』

 

出典『バルトーク物語』セーケイ・ユーリア著 羽仁協子・大熊進子[共訳] 音楽之友社1992年

 

 

♪Keiko Takagi♪